広島の被爆樹木
平和の種蒔きの手がかりを求めて、被爆樹木を訪ねる旅をはじめました。
広島の被爆樹木は、1945年8月6日に投下された原子爆弾の爆風と熱線を浴びて傷つきながらも、戦後にふたたび芽吹いた木々です。75年は草木も生えないといわれた町で命を吹き返した緑は広島の人々を勇気づけ、希望と平和のシンボルとなりました。爆心地から約2km以内の約160本が被爆樹木として登録されています。
ここでご紹介するのはまだほんの一部ですが、少しずつ更新していきます。被爆樹木との初めての出会い、またはなつかしい再会、そして、緑の下の平和な幸福を分かち合うきっかけになりますように。
こども文化科学館東側の
シダレヤナギ
縮景園の大銀杏
鶴羽根神社の
くねくね松
青少年センター西側の
シダレヤナギ
安楽寺のイチョウ
被爆樹木をたずねるときに大切なことを、長年被爆樹木を研究されている筑波大学名誉教授の鈴木雅和先生におそわりました。
被爆樹木の多くは、原爆の投下された爆心地に向かってかたむいています。命を奪われるほど深い傷を受けた片側をおぎないながら、反対側だけ懸命に成長をつづけることで、生きのびてきた被爆樹木たち。そんな木々の群れは、鳥の目で空から見ると、まるで爆心地を包みこむように、爆心地に向かって祈りをささげているように見えるといいます。そうした痕跡を見つけることのできる「被爆樹木の森」は、いわば体験型のフィールドミュージアムであり、そのメッセージは、自分の足で、目で、手で体験することでこそ、より深く感じられる、と。
Masakazu Suzuki.“Hibakujumoku as a Casualty of Atomic Bomb” 2024.
そして、被爆樹木の声なき声に耳をすますための観察方法は、次のとおりです。
1. 遠くから全体を、近くから部分を見る。
2. 爆心地の方位とそこまでの距離を知る。
3. 移植されたものか、戦前からそこにいるのかを知る。
4. 幹にある傷跡の場所と方向を知る。
5. 幹、枝そして根の様子を見る。
6. 地上で根が張っている様子を見る。
鈴木雅和「ヒロシマ被爆樹木のお話」2015.
被爆樹木の森を自分の足で巡りながら、五感で体験したものを写真と文で綴っていきます。
平和記念公園の被爆アオギリ
(広島市中区中島町1−2)
平和記念資料館前にたたずむ被爆樹木です。2世が各地に植えられています。
広島の被爆樹木を訪ねる旅、まずは、原爆ドームからはじめます。
1945年8月6日に投下された原子爆弾の爆心地から160メートルの被爆の実相、その傷あとをいまに伝えてくれる場所です。
「原爆ドーム」は戦後の名前で、戦前は「産業奨励館」と呼ばれていました。鉄骨のむきだしになった建物が戦渦を思い出すので撤去してほしいという声と、保存してのこすべきだという意見が対立するなか、「あのいたいたしい産業奨励館だけがいつまでも恐るべき原爆を世にうったえてくれるだろうか」という被爆少女の日記が、保存運動の高まるきっかけになったそうです。忘れてはならない歴史を伝えることを選び、傷ついた土地をいたわるように緑で覆い、慰霊碑を建てた広島の人々の思いが、ここに凝縮されていることを感じます。
ドームをまわって川沿いに進み、つきあたりの元安橋をわたった先が平和記念公園です。
向かって右手「原爆の子の像」手前にはバラ園があり、スヴニール ドゥ アンネ フランク (アンネのばら)も見ることができます。
めざす被爆樹木は橋の左手、平和公園南側です。途中の「平和の灯」に祈りをささげて進みます。
豊かな緑の木もれ日の下を歩いていくと、原民喜がその詩に「青葉したたれ」とうたった祈りが、この地にあふれていることが伝わってきます。公園の木々は戦後、平和公園の整備のために、国内外から寄贈されたものだそうです。一本一本にもきっと、知られざる物語があることでしょう。
平和資料館の前、しずかにたたずんでいるのが、被爆アオギリです。
1945年当時、爆心地から1,300m離れた広島逓信局で被爆し、傷つきながらも緑をふきかえした木が、平和と再生のシンボルとなり、1973年にこの場所に移植されたそうです。隣には、実から芽吹いた2世の木も植えられ、被爆樹木の親子の姿を見られる貴重な場所でもあります。
木の手前には、この木をうたった「アオギリのうた」が流れる装置が設置されています。
当時小学2年生だった森光七彩さんの作詞・作曲による「ヒロシマのねがいはただひとつ せかい中のみんなの明るい笑顔」という一節が胸に響きます。(この曲は、広島市ホームページでも聴くことができます)
取材当日は修学旅行生の姿が多く、被爆アオギリも、赤い帽子をかぶった小学生たちに取り囲まれていました。彼らはアオギリからどんなメッセージを受け取ったのでしょう。小学生のときに初めて平和記念公園を訪れた思い出がきっかけになった自分はいま、こうして平和と植物をテーマに発信しています。この日、彼らの心に蒔かれた種もきっと、ひそやかに根を張って、いつかそれぞれのかたちで芽吹き、次世代に伝えてくれるのではないかと願っています。
平和大通り緑地帯の被爆樹木
(広島市中区小町3)
ムクノキ、センダン、クロガネモチ、エノキなどの被爆樹木を見ることができます
平和記念公園南東側、平和大橋をわたった平和大通りの歩道は広く、緑地帯になっています。
木陰がここちよいベンチもあり、お昼時にはお弁当をひろげて憩う人々のすがたが。
「平和」の地名がつづくこの場所に、被爆樹木がとけこんでいることが、何よりの平和の象徴であり、広島ならではの風景と感じられます。
起伏のある石畳を歩いて、幹にかけられた札を目印に、被爆樹木をさがします。
取材時はムクノキとセンダンの緑が、ひときわあざやかでした。
残念ながら枯死してしまった木の切り株ものこされていて、原爆から一度は再生しながらも寿命をむかえる木と、さらに枝葉を伸ばす木、それぞれがまた貴重なメッセージを伝えてくれるようでした。
市電と人々が行き交う町の中心で、かなう限りいつまでも、この平和な木陰がつづきますようにと願わずにはいられません。
広島城の被爆樹木
(広島市中区基町21)
ユーカリ、マルバヤナギなどの被爆樹木を見ることができます
戦時下では本丸に広島大本営のあった広島城。復元されたその二の丸跡の被爆樹木を訪ねました。
お堀の御門橋をわたって、表御門をくぐって進み、本丸へ向かう途中にたたずむのが、被爆ユーカリです。
遠くからはふつうの木に見えますが、根元まで近づくと、枝が複雑に曲がりくねり、からまりあって伸びていることがわかります。爆心地から740メートルの場所で、原爆に耐えながらも、その後の台風で倒れ、幹のひこばえから再生してきた証しです。生きのびるための、その長年の苦闘が伝わってくるようです。
ユーカリの斜め向かいには、こんもりと葉をしげらせたマルバヤナギが立っています。
被爆樹木の中で唯一、生き残っているマルバヤナギとのこと。
この木も近くに寄ってみることで、原爆の傷跡をうかがうことができます。
包帯のようにロープが巻かれ、支えで補強されているのは、幹の中が空洞になってしまっているためということです。満身創痍で、それでも毅然と緑を保って立ち続けるすがたに打たれました。
6月のこの日の取材では、自転車で予行練習をする被爆樹木めぐりのガイドさんたちに出会いました。真夏のような炎天下でも、これまでにめぐった木の数や、被爆地に向かってかたむく木の特徴などの情報を元気にシ ェアされていて、頼もしくうれしくなりました。この夏休みにはきっとたくさんの方に、あちこちで木の声を伝えてご活躍されているのではと、思い浮かべています。
二葉の里第二公園のクスノキ
(広島市東区二葉の里3-2)
広島駅から歩いていける「二葉の里歴史の散歩道」で出会えるクスノキです
JR広島駅の新幹線口を出て北へまっすぐ進むと、由緒ある神社やお寺がならぶ「二葉の里歴史の散歩道」に行き当たります。その整備された並木を左手に折れて進むと、小さな公園が見えてきます。こんもりとしたこの梢の主こそ、被爆樹木のクスノキです。
かつては練兵場であり、救護所にもなったこの場所で生き残った木ということですが、その傷跡をしのぶのが難しいほど穏やかに、街の風景にとけこんでいます。被爆樹木であることを示すプレートがなければ、公園のシンボルツリーとして戦後に植えられたものと思ってしまうほどです。
けれども、爆心地を意識してゆっくりまわって観察してみると、まっすぐに立っているようでいながら、被爆樹木の特徴であるわずかな傾きが感じられます。目立ちませんが、枝の広がりが均一でないことも、幹にある瘤も、原爆をのりこえてきた証なのかもしれません。そっと触れると、さやさやと葉ずれの音が応えてくれるようでした。焼け野原となった街で生き残ったこの緑に、戦後の人々はどれほど勇気づけられたことでしょう。
「どこから来たの?」犬を連れた地元の方がベンチに腰かけて、のんびりと話しかけてくれました。ここはお気に入りの散歩コースだそうです。80年以上の時をこえて風に葉をゆらすクスノキは、これからもやさしい木陰をつくってこの場所を守り、人々に見守られていくのでしょう。
順次、追加でご紹介と記録をアップしていきます。
<参考文献>
『ヒロシマの「もの言わぬ証人」たち 被爆建物・被爆樹木巡りガイドブック』(広島市市民局)2018年
石田優子 著『広島の木に会いにいく』(偕成社)2015年